自由論、不平等起源論

・自由論

教養としての経済学のある章の最後にJ.S.ミルの自由論がいいみたいなことが書いてあってその章が面白かったのもあって読んでみました。

もう読み終わったのが結構前だからあんまり内容は覚えていないんだけど、、、もう忘れてるのがだめだ備忘録として使おうと思ってたのに。

議論の重要性みたいなのが今でも自分は覚えていて、どんな反論も決して無視するな。当たり前と過信することは、いずれその事柄がたとえどんなに正しいことでも盲目的に信じることでその価値を失ってしまう。反対意見に触れ議論を交わしその正しさを証明することでそのことがらの正しさがより生きてくるのだ。だからどのような意見も議論せずに退けることは何の得にもならないのだ。といったことが書いてあって、言われれば確かにそうだがなかなか気づけない重要な事だなと思いました。(小学生並みの感想)

またどのように法で言論の自由を言っても実は我々大衆はminorityを意識的または無意識に弾圧してしまう一面がある。それはmajorityでいることは自らの正しさを論ずることなくみんながそう思っているから私も正しいと思えるからであり、その考え方は人をダメにしてしまうのだ。といったようなことが書いてあった気がします。ここらへんのお話は今の日本にとても当てはまっていることじゃないかと思いました。

議論というのは難しいなと思います。答えのある議論もない議論も。

答えのある議論については人々は自分が間違えることを恐れて議論しません。専門家や周りの人間が答えるのを待ってからそれに乗るのが一番です。間違えるということは他人にバカにされる恐れがありますから、それ以上の価値が答えを出すことにないとなかなかできるものではないと思います。

また答えのない議論も難しいです。答えのないものについては最初の議題に対しての自分の主張は答えることができます。別に正解も間違いもないのですから自分の主義主張は周りの同調圧力などがなければ答えることは容易いです。しかし相手の反論についての反論というものは実は議論についての練習を重ねていないとなかなか出せるものではないのではないかと僕は思います。上でミルが言っていた、ただ先生や親人に言われていたことを盲目的に信じているだけで生きてくるとなんでダメなのかなんでいいのかということを考えることができなくなり、それが議論力の低下につながっていると思います。

その結果さらに人々は議論を避けることになります。「そんなに言うならそれでいいよw僕はこう思ってるけど君はこう思ってるこれで終わりでいいよwそんな必死になるなよw」最近こんな風にかっこよく議論を終わらそうとする人を見る気がします。クールぶっていますがただ考えるのが苦手なだけだと思います。

僕もそのようになってしまうことがあるので気をつけないといけませんね。

 

・不平等起源論

近代のそういうのにはまってkindle unlimitedを登録したのもあって評価のそこそこ高かった不平等起源論を読んでみました。

はじめに言っておきますがなかなか文が理解し難い?難しかった?のであまり理解できませんでした。書いてあることをそのまま流すことは出来たと思うのでちょっとそこを書いておこうかな。

なぜ今の人間は不平等に悩まされているのか。それはつまり人々が社会に生きているからだよ~他人と比べないと自分の価値を確かめられないから社会の奴隷という鎖に縛られて辛くなってるし、自らどんどんそこの沼にはまっていってるんだよ~と書いてありました。

もう少し詳しく書くとその不平等の原因を解く前に、そもそも何も持ちえてなかった頃の人類はどのような状態であったのかというものを考察しています。本当になにももたなかったとき人々は同類を哀れ慈しむ心はあったが特に自ら他人に干渉することはなかった。他人に嫉妬することもなくただ一人の人として生きていたとルソーは言っています。それが自然状態であったと。しかし何らかの要因(ここ忘れた。多分何らかのきっかけで道具や火などを用いる事に気づきそこから変わったみたいなことが書いてあったような・・・)により社会ができ、男は狩り女は家でみたいになり、そうなると女は隣人と仲良くなりその輪が広がりいつしか社会となる。その社会の中で人々は余暇を楽しむことを覚え、その余暇での祭の中での歌のうまさなどが最初に人々がもった嫉妬という気持ちでそこから不平等が生まれたのではないかと考察していました。またその次の段階は(誰が気づいてしまったのかこれが一番最悪とありました)土地を所有すること、これこそが今の不平等に一番基づくものだとありました。そこからは奴隷社会うんぬん、首長、王様が生まれ彼らは後に自分の子孫にその権利を譲渡したいと考え、そのうちそれらはもとから自分たちがもっていたもの、必ず自分たちしか持ち得ないものという考えに繋がるみたいなことが書いてあった気がします。

社会で生きていく以上はもう不平等は仕方ないですね。他人に認められることが価値なんだから。でも自分で自分を認めることも別に全く無価値な訳ではありません。むしろそれができる人こそ社会でもうまく立ちまわっていくことができるんじゃないかなあなんてちょっと思ったりしています。他人に認められたいという承認欲求も大事ですけどそれに溺れるのではなく上手くコントロールすることで一番の実力が発揮できるしメンタルもうまく保てそうですよね。

ちょっと話題はそれるんですけど承認欲求事態は社会で生きていく以上しょうがないものででもそれをインターネットという見ず知らずの人間に与えてもらおうとしていることに人々は違和感を感じていたりキモイと思ったりしているのかなと思います。でなんでその行為がダメかというとインターネットにそれを求めるということはリアルで承認欲求が満たされない、つまりリアルではあなたあんまりいいところなさそうなのにインターネットでそれを満たそうとするなんてwみたいなところでしょうか。あと多い例としてはインターネットという世界ではいわゆる女に相手をされないオタク男が多くそのヒエラルキー下位の人々に慰められてるヒエラルキー下位の女という構造が傷の舐め合いとは少し違いそうですが、底辺同士舐めあってる姿が気に食わないのですかね。

ただの嫉妬も多そうです。これ以外にも例はたくさんあると思うんですが僕は別にインターネットで承認欲求を満たすのはいいと思ってる派です。女という性を使って満たすのはどうなのとは思っていますが、なかなかリアルでは自分を出すのが苦手だったり、関わる人々との趣味の違いから自分をなかなか知ってもらえないなんてことはあると思います。と言うか自分がそう。

無闇矢鱈にたたくのではなくみなさん優しい心をもって僕も承認してってことです。終わり

次はシンゴジラ君の名は。の感想書くかな